東蘺佳秋色
菊を採る東蘺の下 悠然として南山を見る 山気日夕に佳く 飛鳥相与に還る
庵の東側の垣根に咲いている菊を折り取っていると、ふと、見るともなく南の山の悠揚迫らぬ山容が目に入る。私はその山をゆったりとした気持ちで眺めている。山の佇まいは夕暮の空気の中にこの上なく素晴らしく、鳥たちがうちつれてあの山の塒へ帰っていく。
帰去来の辞で名高い陶淵明(365-427)の飲酒二十首の一句で、生活の為官途に仕えたものの、嫌気がさして故郷に帰り、爾来酒と詩文とに鬱屈する想いを散じつつ隠者的な生涯を送った田園詩人で、自然を友にした超俗脱塵の生活のあこがれを表しています。日本でいえば聖徳太子よりも前の時代に役人の仕事に嫌気がさして田舎に帰って隠遁生活をした人物の詩があり、今日まで伝えられているというのは大変興味深いです。ただ日常や自然を表しただけの詩の中に、1000年を超えて語り継がれていく何か歴史や文明の力を感じました。
花 われもこう ほととぎす 吹上菊
佐藤先生の連客として詫間町の藤田様の邸宅に月見の茶会に同行させていただきました。
庭の松の手入れが行き届いてお見事です。とても幻想的な雰囲気でお茶をいただきました。
日本庭園に茶室、月見台は自分でつくったそうです!星空の下で茶会なんて経験は初めてで、時代劇ドラマのセットのようでした。
月が残念ながら出てきてくれなかったので、床の間にご亭主が水墨画で月を書いてくださっていました。
ある月見の日、ふと見るとお供え物がなくなっていた。お供え物がなくなるのは神様がその家の作物を気に入ったということで、次の年豊作になる縁起のいい印。
あとで子供達の仕業であることがわかったのですが、その後も子供達の好きな団子にし、とりやすいように縁側においたという話があるそうで、手の届くところに盛られてあるのが心暖まります。
茶箱の月手前だそうです。茶箱というのは季節の眺望を楽しみながら野外でいただく手前だそうで、箱持ってピクニックみたいです。
昔の人はこんな風流なことを思いついたのかと妙に関心してしまいました。
垣根が青竹でもしかして今日のために!?そういえばたたみも青かった。切り出したばかりの新しい竹を準備してくださって客の気持ちも引き締まります。
これも自分でつくったのだとか。なんでも造るご亭主の力量に感服いたしました。
点心もいただきました。料理も内製だそうです。
お月さんみたいな栗ご飯に、汁椀の蓋を開けたときの松茸の匂いが食欲をそそります。
柿を模した鶉卵がほんとに丁寧な細工でびっくりです。色合いもつやも柿そっくりで、ご亭主に庭の柿だよと言われて食べるまでわかりませんでした。
もみじの下に大きな丹波栗の渋皮煮がかくれてて、栗拾いみたいでニヤリとしてしまいました。
茶席をつくり、掛け物を書き、庭を造って花を飾り、料理を作り、お茶を点てる。
自宅でこれだけの演出ができておもてなしができるなんて、お茶というのはクリエイティブで和の表現の場だと実感しました。
モノを造るというのは造った本人でないとわからない苦労があったりしますが、それを理解して初めてモノを見る眼が養われるのだと感じます。まず着想し、設計をして下準備をして組み立てる。
そして完成し表現できた時の感動は素晴らしいと思います。
茶道クラブもここまでのセットはできませんが、いろんな創造をしておもてなしの場をつくれるよう稽古に励みたいと思います。