立礼卓です。最近はこの形式が主流だそうで、西洋文化の椅子とテーブルで、家に畳や床の間がないことも多くなっているせいか、正座に耐えられない現代人にはありがたい創りです。こうやって姿形は変わっても、文化は伝えられていくものだなあと感じました。道具のあつかいやお茶を点てるときなど、多少やりにくさは感じましたが、頂く側としては足も痛くならずにリラックスできました。
時代というのはじわじわと来ているときに、変化に必要なだけの心構えも出来ないで、ある日突然変わってしまったように感じてしまう。
いまは見ようと思えば地球の裏側で何がおこっているか、過去に何が起こったのか、膨大な資料と情報で見られる大変恵まれた環境にあります。こんなに恵まれた環境にある私たちが知ることを怠ってはいけない、過去の事柄や様々な世界を知ることは大事だと思います。過去の知識・情報を糧にしてこれからの未来を模索する。過去を学ぶと時には目を背けたくなるような事実に否定したくなるときもあります。しかし、自分が見たくないと思う物事こそ直視しなければならない事実がある。時の流れに流されてしまったり、多数の人の考えに同調して間違いを起こすことが数多くありますが、自分の行動は自分の頭で考えて、責任をもって行きたいと思います。
「お茶をおあがりなさい」という意味の言葉で趙州和尚が雲水(修行者)に「あんたは前にここにきたことがあるかい」と尋ねるのを例としていた。「はい、前に来たことがあります」という雲水にも
「いや、来たことはありません、初めてです」という雲水にも同じように「喫茶去」と応待されていた。寺の院住が不審に思い、「一様にお茶をおあがりといわれるのはどういうわけでしょうか」とたずねると、この問いには何の釈明もせず「おい、院住が思わず「はい」と返事すると、趙州すかさず「喫茶去」といわれたという話で、私達の日常を反省してみた場合、貴賎、貧富・・などの執着を捨てた境涯から、客の貴賎・貧富・巧拙・・などにかかわりなく、一様に心を入れて茶を供しているであろうか。客の社会的地位や初心者か練達者かなどの相違によって、その心入れに厚薄・深浅がないだろうか。また客として、亭主が未熟者であり、お道具が粗末であっても、趙州のお茶をいただくと同じ心構えでいただいているだろうか。今それぞれの立場は仮の象でいつ根底から覆るか知れない、改めて反省させられる一語であります。
花 金水引 鷺草 祇園守むくげ |
主菓子 陽炎 川向製 赤とんぼで焼印して割れ目からのぞく緑が季節の移り変わりを感じて、とても風情がありました。 |